れません通だと思


ああ、綺麗。
澄んだ空に向かって樹木が伸びています。
なんでこんなに綺麗な世界があるというのに
僕たちはずっと下を向いて歩いているのだろう?と
思わされます。
それくらい綺麗な空と木々。


だが、しかし、
僕たち夫婦には使命があるのです。
シダーローズを探すという高尚な使命です。


またこんなのを書いちゃうと、
アンチ共産党の人みたいに思われるかも飲水機品牌しれませんが
決してそういうわけではございませんよ。
僕はあくまでも無党派の人間です。
でも、
いかなる誤解を受けることになったとしても
これだけは書かずにいられないんです。


だって、
志位委員長の新たなるポスターが

こんな感じなんですもの。


いやぁ、
これ、すごくないですか?
なんていうか唖然としてしまうポーズです。


この日曜日はお休みだったので
僕は朝早くに起きて
小説の書き直しをするためいつもの喫茶店へ
向かっていました。
奥さんはお勉強することがあるので
別の喫茶店へと行きます。
向かう方面は一緒なので寒い中を連れだって
僕たちは歩いていたわけなんです。
その通りすがりに、


これを見つけてしまったわけです。


うーん、こりゃすごいな。
そんなことはないと思うけど、
ふざけてるように見えてしまう。
それにしても
この手はなにを示そうとしているのでしょう?
水晶玉に手をかざしているようにしか見えませんね。
あるいは、


このお方の真似でもされているのでしょうか?
なにかが爆発しちゃうんでしょうかね。
でも、なにが?
共産党が?政治が?国会議事堂が?


また、
このお方も思い起こされてしまいますね。

Mr.マリック氏です。
しかも、
こうなると――


かなり似通ってしまいますね。


あるいは、このお方も。

ユリ?ゲラ―氏ですね。


志位委員長にスプーンを渡したら、
全部ひん曲げてくれそうです。
いや、まあ、
そんなことしてもらっても誰も得しないですけどね。


そう考えて、もう一度
志位委員長のポスターを見てみましょう。

なんだか不敵な笑みを浮かべてますね。
隠し球を持っているって感じの表情です。
「いくら数で押し切ろうとしても
俺たちには神秘のパワーがついているんだぜ」とでも
言っていそうに見えます。


しかし、
顔だけ切りとってみると、


若干は不敵な表情に見えるものの
いつもの《立派な野党党首》の顔にしか見えません。
やはり、手のポーズが問題なんですね。
どういう意図があって、こんなふうに撮ったのだろう?
そして、
なにを表現しようとこのポーズを採用したのでしょう?


いや、
まあ、そんなことは
どうだっていいんですけどね。

僕はけっこうな田舎の生まれなので
町のあちこちに舗装されていない道がありました。
雨が降った後なんかは
ぬかるんでしまうような道ですね。


しばらく埼玉に住んでいたこともあるのですが、
まあ、あの辺にも
当然のよ搬屋公司うにありましたね。
僕の住んでいたのが川沿いでもあったので
土手下なんかはもちろん
剥き出しの土にびっしりと雑草が生えていました。
そこを歩くことはほぼなかったものの
きっと雨の後にはぬかるんでいたことでしょう。


東京で暮らすようになってからもけっこう経ちますが、
さすがは大都会だけあって
探さない限りは舗装されていない道に
ぶちあたりません。
しかし、
探そうとすればあるもので、


こんな感じにぬかるんでいます。


とはいえ、
これは《道》といっていいかわからない場所です。


毎度お馴染みの雑司ヶ谷墓地ですね。


僕は休みの日にはだいたいいつも
雑司ヶ谷墓地に行くようにしているので
(漱石先生の墓参にです)、
こうやってぬかるんだところを
歩くことができるわけです。


いえ、
とくにぬかるんだ道が好きってわけじゃないですよ。
靴に泥はつくし、気をつけてないと滑るし、
どちらかというと嫌いな方ですね。
ただ、
こうやって眺めていると、
今朝は東京でも霜が降りたのかな?なんて思えるので
その部分だけに関していえば、若干は好きですね。
ぬかるみに季節を感じるってことでしょうかね。


(↑誰かの足跡が残ってますね。そうとう泥まみれになったことでしょう)


ところで、
僕はぬかるんだ道を歩いていると
忌野清志郎の歌を口ずさんでしまいます。
『雪どけの道では
何度も何度も足をとられ
大切な一言が言いにくい
言いにくい春なのさ』
いや、
まったくもって『雪どけの道』なんかじゃないのですがね。
でも、なんとなく口をついてきてしまうんです。


ま、
どこにでもあたりまえにあるような
ぬかるんだ道に興味を持つなんて
相当な暇人のすることなのでしょう。
それこそ、
同じ歌で清志郎がうたっているように
『駅のホームに散らかってる出来事さ』と
思われる方もいるでしょうね。
「こんな写真撮ってどうする気?」ってふうに。


しかし、
ごくあたりまえのものに出会えない場所にいると
こんなものにでも
心を動かされることがあるんです。

まあ、最近ほとんど耳にしませんけど
『ガッツ』って言葉がありますよね。
「あいつ、ガッツがあるな」とかの
『ガッツ』です。
ああ、それに
ガッツポーズの『ガッツ』ですよね。
そっちの方はまだ耳にすることもあります。
《ガッツポーズ論争》なんてのもあったようですしね。


さて、
この『ガッツ』ですが、当然のごとく
もともとは英語であって、
『gut』の複数形であります。
単数では『腸』のことらしいですが
複数形になると『はらわた?内臓』になるようで、
それが転じて『根性?肝』みたいな意味にも使われるそうです。
つまり、
「Hehasgats」は、
「彼は内臓を持っている」ではなく、
「奴は肝が据わってる」になるわけですね。


で、
『ガッツ』というと必ず登場してしまうのが


このガッツ石松氏ですね。
このお方、本名は鈴木有二さんなんですね。
リングネームに本名の欠片もないわけですが、
『石松』は、あの『森の石松』から
『ガッツ』は、所属ジムの方々が
「もっと根性のあるボクサーになってもらいたい」という
希望をこめてつけたそうです。


ガッツポーズについては、
このガッツ石松氏が試合で勝ったときにしたポーズが
由来になっているという説搬屋公司が有力になっているようです
(それ以外にもボウリング絡みの説があるようです)。
だから、
先にちょっとだけ挙げた《ガッツポーズ論争》にも
ガッツ石松氏は引っ張り出されてしまったようですね。
ちなみに
このガッツポーズはいわゆる和製英語ってやつで、
英語では『victorypose』とするのが普通のようです。

なにが言いたいかというと
(いえ、とくになにか言いたいこともないのですが)、
こう並べてみると
なんかすごくないですか?
『gut(腸)』→『guts(内臓。転じて根性)』→
『ガッツ石松氏』→『ガッツポーズ』という流れが。


言葉が流れ流れて、この極東の島国で
変な感じに変わっていってしまったんですよ。
いや、
まあ、言葉自体はさほどの変化をしておりませんが
『ガッツ』と言えば『ガッツ石松』が頭に浮かぶように
なってしまっているんです(僕だけかもしれませんがね)。


ん?
変な感じに?
いえ、
僕はガッツ石松氏を敬愛していますよ。
ボクシングというスポーツが好きですし、
彼は世界チャンピオンにまでなった方ですからね。

うん、ほんとうに敬愛していますって。

「ああ、この人って自分が大好きなんだろうな」と
思わせる方っていますよね。
僕が勤めている会社の常務はまさにソレで、
まあまあ良い男振りでもあるのですが
それを思いっきり意識されてるような節があります。
髪をかきあげる仕草なんかを見ていると
ひしひしと伝わってきますね。
「そうとうなもんだな、こりゃ」と思うほどにです。


その常務ですが、
今は部下どもに任せているようですけど
僕が入社した頃は
二次面接を受け持っていたんですよね。
で、
彼の面接を受けた者たち(僕も含む)は
「ああ、この会社、絶対に落ちた」と思ったものです。
というのは、
ずっと、ほんと延々と
自分の話しかしないからです。


「俺は昔こういうとこで働いていて、
それで、今はこういう立場になっているわけだけれども、
まあ、そうなれたのにはやり方があって、
つねにこの後どうなるかを考えながら、
次なる一手を考えつつ働いて、なおかつ
自分の生活のことも念頭におきながら――」と
句点の置き所に困るしゃべり方で捲したてられました。
いえ、
そこは良い男振りの方なので、喚くわけでもなく
ごく淡々と低い声で話されていましたけどね。


そんな面接受けたことがなかったものだから
大多数の者たち(僕を含む)は
「ああ、この人は私に興味がないんだ。
つまり、不採用ってことでしょ?」と思ったわけです。
ま、そう考える方が当然でしょう。


今はほとんど顔をあわせることもありませんが、
僕はその常務を見るたびに
「うん、そうとう自己肯定の強い人だな」と思います。
ま、仕事上の彼しか知らないので
それですべてを判断すべきではないのでしょうけど。


ところで、
かくいう僕もけっこう自分が好きです。
「そうでなければ文章を書いたりしていないんだろうな」
などと思ったりもします。
だって、
書くこともそうであれば、このように発表してるなんて
自己愛の強い人間でなければしないと思いませんか?
――いや、まあ、
どんな理由で文章を書くかなんてことを述べはじめると
テーマから著しく離れてしまいそうなのでやめますが、
僕は「うん、自分のこと大好きだ」と思う人間のひとりです。


しかし、
そうではあるんですが、
完全に諸手を挙げて「自分、大好き!」にはなね。
「ああ、この部分は嫌だな」だの
「昔、あんなことしちゃったからな」なんてふうに思うと
「うん、けっこう嫌い」とも思うことも(多々)あります。


人間って、身内の者にも決して言えないような
失敗体験を抱えているのが普いもするので、
完璧に「自分、大好き。イヤッホー!」にはなれないですよね。
だけど、